会計と資金調達の変遷について

経営の舵取りをするには、会計は必須ではないか、情報システムを構築するにも会計制度がしっかしいていて要求水準書を出すことができる。ここでは、小田商店の会計と資金調達について、振り返り、記述してみたい。
 
もくじ

小田商店設立から90年代までの会計

会計の実態

会計については、昭和28年(1953年)の設立時から複式簿記で記帳している。
法人税法では1年に会計期間で損益を計算し、納税する必要がある。そのために正確な損益計算をしていたというのが、90年代までの小田商店の会計の歴史だ。
 
法人税法(昭和四十年法律第三十四号)
(事業年度の意義) 第十三条 この法律において「事業年度」とは、法人の財産及び損益の計算の単位となる期間(以下この章において「会計期間」という。)で、法令で定めるもの又は法人の定款、寄附行為、規則、規約その他これらに準ずるもの(以下この章において「定款等」という。)に定めるものをいい、法令又は定款等に会計期間の定めがない場合には、次項の規定により納税地の所轄税務署長に届け出た会計期間又は第三項の規定により納税地の所轄税務署長が指定した会計期間若しくは第四項に規定する期間をいう。ただし、これらの期間が一年を超える場合は、当該期間をその開始の日以後一年ごとに区分した各期間(最後に一年未満の期間を生じたときは、その一年未満の期間)をいう。
 
年に1回は決算棚卸しがあり、売掛金の査定、買掛金の確定などを行い、資産と負債の評価を行いはじめて、実際の損益がわかるという状態であった。また、それは納税のために行うという目的が大きく、経営判断や、経営計画などのためというものではなかった。
 

会計制度のタイムスケール

毎日変動がある会計科目として毎日記帳が行われていた会計科目。
・現預金
毎日変動があるが、得意先向けの請求書や仕入先請求書によって、記帳が行われていた会計科目
・売上、売掛金、仕入、買掛金、各種経費等の販売仕入経費に関係する科目
単品の入出庫の管理を行っていないので、年1回の棚卸しでしか、把握できない会計科目
・商品
 

タイムスケール上の問題点

月次決算を行うレベルでいえば、商品以外の現預金などの会計科目は、毎日あわせていたし、その他の会計科目も毎月というタイムスケールでは正確に把握はできていた。
小田商店のコア業務である、商品売買の記録が請求書を発行するための紙伝票でおこなっていて、1つの商品を追跡できるものではなかった。それは商品Aをいつどこからいくらで何個買って、いつどこにいくらいく売ったのかの商品1つ1つの増減が把握できていなかった。故に商品在庫金額の増減が年に1回の決算棚卸しでしか把握できていないというのが問題であった。
よって、月次決算で商品売買の日々や月次の経営判断を行うには心もとないどころか、できないというのが現状だったとおもう。
 

まとめ

当時は、商品在庫金額を反映した月次決算ができない状態であった。しかし、税法上は年に1回の正確な損益出しをすればいいので、年に一回の決算棚卸しで法律で強制される決算はできる。
逆に月次決算は法律の規制がないため、形式的な現預金や買掛金・売掛金などの数字はきちんとあわせるが、商品金額の変動を行わない月次決算をおこなっていた。
また1つ1つの商品の動きを多角的に集計して追跡ができないというのも経営判断が出来ない状態であったと言える。
この状況が90年代までの会計の現状であった。
 
 

コラム1:会計の実務的・理論的学びを得た本

R&Dでどれくらいの投資をすると成功するのか、コーニング社のが光ファイバーの商用化までどれくらい投資したのかなど、資本の論理を20代の小田大輔に教えてくれた本
 
御堂筋税理士法人謹製のプロ経理担当者への道、地味な内容だが基本的な会計の実務をこつこつと説明してくれている本。いささかクラウド会計時代にはそぐわない内容もあるが、大筋は揺らがない渋い本。社内の会計制度をつくるにはいい本。
 
GW,パナソニック,3Mという企業が会計とはなんのためにするのかから始まり、その実態や問題点、到達していることなどを研究した本。
 
ちょっと古い本だけど、98年くらいに読んで、中央銀行の働きなど米国の金融がどう動くのかFRBってなに、FOMCってなにってところから、当時の物語として読める本。またグリーンスパン議長が現役のときに、ウォーターゲート事件で有名なボブ・ウッドワード記者がインタビューしてまとめた本。金融の専門書ではないけど、登場人物のキャラクターがよくわかって面白い。
 

90年代後半の金融危機や金融政策の変更による小田商店の資金調達や会計への影響

 

平成デフレ

90年代後半、97年位からデフレーションが進行しており、この時期から仕入れ価格も下降の一途をたどる。実際にどういうことがおこるかというと、棚卸し価格がさがるので、商品在庫価格下がり在庫評価損がでる。毎年値段が下降すれば、毎年在庫評価損が発生する。経常損益に下降圧力がかかる。当時の経営陣の金融や会計知識では金融の変化に対して相当無策な対応をしていた。
日本のデフレーション - Wikipedia
本項では、日本の デフレーション について記述する。 1880年代前半の日本では、大蔵卿( 1885年( 明治18年)の内閣制度発足に伴い、大蔵大臣)の 松方正義が緊縮財政を行い、それまで濫発されていた 不換紙幣を償却し、 日本銀行を設立して 銀本位制が実現された。この緊縮財政の結果、日本はデフレ不況となった( 松方デフレ )。 また、 濱口雄幸首相と 井上準之助蔵相が緊縮財政を行い、 1930年に円切り上げ(円高)となる旧平価で 金本位制に復帰し(いわゆる 金解禁)、デフレ不況となった。日本の 昭和恐慌 期の年間の物価下落率は10%を超えた。翌1931年には11.5%の物価の下落が起きた。 日本は、1920-1931年の12年間は、1920、1924、1925年を除くと 消費者物価指数 が対前年比マイナスの長期のデフレであった。消費者物価指数は、1924年1.2%、1925年-4.5%、1925年-1.5%、1926年-1.5%、1927年-3.8%、1929年-2.3%と、1924年は僅かに上昇し、1925年以降はデフレ型経済に傾斜していった。1926-1931年の6年間、日本のデフレは続いた。1920-1932年の消費者物価の対前年比はマイナス3.2%であった。 第二次世界大戦後、 1949年に超均衡予算を中心とする ドッジ・ラインが実施されて、デフレ不況(ドッジデフレ・ 安定恐慌 )が起こった。 1989年から 1990年には、日本では急激な利上げと 総量規制による貸出の制限で、 マネーサプライの伸びがマイナスになるほどの引締め政策で バブル崩壊が起き、 1992年以降 ディスインフレーション(物価上昇率の低下)の傾向を示すようになった。日本は企業物価指数で 1991年11月以降、 GDPデフレーターで 1994年第4半期以降、消費者物価指数で 1998年 9月以降デフレとなった。 1997年(平成9年)の 消費税等の増税・歳出削減などの緊縮財政により日本の消費者物価上昇率がマイナスになり、デフレの様相を呈するようになった。同年に発生した アジア通貨危機や、これに続いた日本の 金融危機も原因として挙げられている。日銀による 2000年のゼロ金利政策解除や 2001年の国債30兆円枠による緊縮財政、 民営化、 規制緩和などの 経済政策 により、日本のデフレはさらに激しくなった。 2001年3月、日本政府は日本経済が「緩やかなデフレ」状態であることを公式に認めた。同年3月19日からデフレ期待を解消し停滞を打破するために日銀の 量的緩和が開始された。この政策には、 ゼロ金利の長期化が予想されることで中長期の金利を低下させる時間軸効果があるとされる。名目金利は0パーセントまでしか下げられず、デフレ下ではそれ以上の金融緩和ができない( 流動性の罠 )とされるが、インフレ期待などを通じた間接的な効果があるかどうかについては、様々な議論がある。 2006年、 2002年からの緩やかな景気回復により消費者物価指数ベースでのデフレ終了が見込まれ日銀の量的緩和が解除された。しかし、生鮮食品と石油関連価格を除いた実体的な物価を表す コアコアCPIを見ると、日本はまだデフレ傾向にあったため、翌年の 2007年 から景気の転換局面に入ってしまった。 2008年の 世界金融危機とそれに伴う不況により、 デフレスパイラル は日本のみならず世界規模での再来が懸念された。日本以外の国の中央銀行は、総需要を増加させるために自国の市場に大量の資金を投入したが、日銀は金融緩和余地の少なさを理由に量的緩和をほとんど行わなかったため、日本のコアコアCPIは0%を下回り、その後約-1.5%まで下がった。 2009年11月20日、日本政府の 月例経済報告において、日本が「緩やかなデフレ状況にある」と3年5カ月ぶりにデフレを認めた。同年12月18日、 日本銀行の 白川方明 も日本がデフレ状態であることを認めた。 アメリカの 連邦準備制度理事会 (FRB) の ジャネット・イエレン副議長は「日本の名目所得、名目 国内総生産 (GDP) は20年前より若干低い。これは注目すべき点で、日本のあらゆる問題の根源となっている」と指摘した。 デフレである2021年現在では、日本の企業も家計のように金融資産を運用する。日本の 少子化、 非正規社員 ...
 

金融環境の大きな変化

銀行や金融機関にも大きな変化が押し寄せて、代表的な社会的事件では、1997年11月24日に山一證券が自主廃業を発表した。
山一證券 - Wikipedia
山一證券株式会社(やまいちしょうけん、 英: Yamaichi Securities Co., Ltd.)は、かつて存在した 日本の大手 証券会社 。 野村證券、 大和證券、 日興證券とともに日本の 四大証券会社の一翼を担ったが、 不正会計(損失隠し)が発覚し、100周年の 1997年( 平成9年) 11月24日に 自主廃業 を発表、2005年に解散した。 法人関連業務に強く、「法人の山一」「人の山一」と言われ、我が国の資本市場の発展と日本経済を支える多くの上場企業の成長を支えた大証券会社であった。 富士銀行、 丸紅、 サッポロビールを始めとする 芙蓉グループ、 日本興業銀行グループ、 日本郵船、 三菱重工業、 三菱地所、 三菱化学、 キリンビールを始めとする 三菱グループ、 松下電器産業・ 松下電工(現・ パナソニック)を始めとする 松下グループ、 キヤノンを中核とするキヤノングループ、 東京急行電鉄を中核とする 東急グループ、 小田急電鉄を中核とする 小田急グループ、 東武鉄道を中核とする 東武グループ、 京浜急行電鉄を中核とする 京急グループ、 東京ガスグループ、 新日本製鐵グループ、 日本鋼管(NKK)グループ、 神戸製鋼所グループ、 川崎重工業グループ、 宇部興産グループ、
当時は金融ビックバンの最中だった。取引している地方銀行も金融政策の変更で対応に大変だったようだ。
金融ビッグバン - Wikipedia
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 金融ビッグバン(きんゆうビッグバン)は、 日本で 1996年から 2001年度にかけて行われた大規模な金融制度改革を指す 経済用語 。 この時期に 銀行など金融機関の「 護送船団方式」を崩壊させるような改革が進行し、その後、2002年以降には、銀行業・保険業・証券の各代理業解禁など 規制緩和が進行したことから、これらの時期を分けて、1996年から2001年度までは「 第1次金融ビッグバン」( 橋本内閣)、2002年度以降は「 第2次金融ビッグバン」( 小泉内閣 )と分けて指すこともある。 1986年にイギリスの ロンドン証券取引所で行われた マーガレット・サッチャーによる証券制度改革が「 ビッグバン」と呼ばれたことにちなみ、「 日本版ビッグバン」は、1997年の 新語・流行語大賞トップテンとなった。受賞者はネット証券先駆者の 松井道夫 。 1996年10月、 総理府経済審議会・行動計画委員会の金融ワーキンググループが報告「 わが国金融システムの活性化のために」をまとめる。背景として、経済の成熟化(経済成長の鈍化)及び バブル崩壊 によって、1990年代に入り空洞化しつつあるとされた日本国の金融市場をニューヨーク、ロンドンと並ぶ国際市場として地位を向上させ、日本経済を再生させる狙いがあった。 1996年11月、が初めて「 金融ビッグバン」を提唱する。首相はこの「 金融ビッグバン」を 橋本内閣のに位置づけ、金融制度改革を2001年までに行なうことを表明した。改革案の柱として、 フリー(市場原理が機能する自由な市場)、 フェアー(透明で公正な市場)、 グローバル (国際的で時代を先取りする市場)の3つの原則を掲げた。 2001年6月、でもこの「 金融ビッグバン」の流れを継承し、首相は「 骨太の方針」の中で「 貯蓄から投資へ」を初めてスローガンに掲げた。2003年からは、個人投資家の株式と株式投資信託の売却益や配当・分配金に対する税率を 20%から 10% に引き下げる証券優遇税制を実施した。 Free(市場原理が機能する自由な市場) 新しい活力の導入(銀行・証券・保険分野への参入促進) 幅広いニーズに応える商品・サービス(長短分離などに基づく商品規制の撤廃、証券・銀行の取扱業務の拡大) 多様なサービスと多様な対価(各種手数料の自由化) 自由な内外取引(為銀主義の撤廃) 1200兆円の個人貯蓄の効率的運用(資産運用業務規制の見直しとディスクロージャーの充実・徹底) Fair(透明で信頼できる市場) 自己責任原則の確立のために十分な情報提供とルールの明確化(ディスクロージャーの充実・徹底) ルール違反への処分の積極的発動 Global (国際的で時代を先取りする市場に) デリバティブなどの展開に対応した法制度の整備・会計制度の国際標準化 グローバルな監督協力体制の確立(G7サミット・蔵相会議等で確認) 1997年の行程表では、以下の事項が行程として挙げられた。 1998年には「 金融システム改革のための関係法律の整備等に関する法律」( 金融システム改革法)が成立し、これら各種の改革が一括化された。 また、2002年8月の「 証券市場の改革促進プログラム」、2002年10月の「 金融再生プログラム 」によって、さらに、改革が進められた。 投資信託の商品多様化 「証券総合口座」の導入 証券デリバティブの全面解禁 資産担保証券など債券等の流動化 外国為替法の改正1998年4月の改正により銀行ではそれまで殆ど取り扱わなかった、一般個人向けの外貨預金取扱が認められるようになった。 銀行等の投資信託の窓口販売の導入(1998年12月から解禁) 証券会社の業務多角化 持株会社(ホールディングス)制度の活用 株式媒介委託手数料の自由化 証券会社の免許制から原則登録制への移行 証券子会社・信託銀行子会社の業務範囲の制限撤廃 親子間の金銭債権の信託に係る規制(50%ルール)を撤廃。 系列投信委託会社からの証券投資信託受託に関する規制(25%ルール)を撤廃。 保険会社と金融他業態との間の参入 銀行・証券・信託銀行については、1993年から既に「業態別子会社方式」で、参入することが認められていたが、新たに「保険」が加わった。ただし、保険業界が強く抵抗し、銀行窓口における保険商品の販売は、当初、住宅ローン関連の生命保険と火災保険に限定された。 ...

当時のNHKの番組「マネー革命」

NHKスペシャル「マネー革命」から「マネー・ワールド~資本主義の未来~」へ2022/9/10 8:232022/9/10 8:26

貸し渋りと資金調達

当時、貸し渋りが社会問題になっていた。
小田商店の現状でいうと、会計方針と経営判断のまずさもあり、有効な手が打てない状態だった。そんな中で、取引先金融機関から運転資金の追加融資を断られた。当時の経営陣は当時のBS/PLを金融機関がどのように評価するのか意味がわからず、追加融資を断られた現状にただ困惑した。また自ら金融機関にBS/PLの意味を説明する必要性も理解していなかった。
また、資金が必要な時は経営者個人がストックしている資金を会社に貸し付けて対応すればいいという思想に染まりきっており、当時もそんな対応をした。しかし、個人がストックできる金額などたかがしれている。金融市場から調達できない企業に明日はないのだが、当時は経営者が資金をストックして会社に貸し付けることがもっとも有効な金融セーフティだと信じ込んでいた。
 

まとめ

特に報道で「貸し渋り」がクローズアップされていて、小田商店も貸し渋りにあったのだという単純な認識であった。この自分の頭で現状を理解しないことで、さらに混迷がつづく。この学びで言えば、簡単な「貸し渋り」という答えで満足しても問題の解決にはならない。当時の経営陣は小田商店のBS/PLの構造的な問題や、月次決算や年次決算の会計処理のスピード、会計帳簿の投資家への説明など複数の問題にまったく向き合っていなかった。
 

90年代までの資金調達の現状

創業時から遡るとはっきりしないが、少なくとも1970年代には買掛の支払いは手形で受け取っていたことがおおい。また小田商店から仕入先への支払いも4ヶ月の期間で自己手形を発行して支払いをしていた。
97年当時、8千万円程度の自己手形を発行していた。また短期借入金期間3か月程度の期間の借り入れを期日が来るごとに決済に必要な金額も変わるので金額を変更して調達していた。また2千万円くらいの約定弁済がある5年の借り入れがあった。
当時は90年代初頭の8%とかの金利時代と比べると、金利水準が安くなったとはいえ、貸出金利も預金金利もある程度あったので、預金金利を少しでも稼ぐために、できるだけ支払いを遅らせたり、必要のないお金はできるだけ借りないという方針で調達をおこなっていた。このオペレーションはいわば、戦後国内に資金がないという状況での資金の回し方であって、特に新しみもない方法だったと言える。
 
 
今後の執筆予定タイトル

経営判断を行う会計へ移行と現実

 

月次決算を経営判断につかうためのハードル

 

ようやく見えてきた月次決算

 

月次決算の精度とは

 
以上